なぜ情報アクセシビリティという視点が重要か
講演者
河村 宏(国際DAISYコンソーシアム理事)
講演内容
相賀様のまとまった報告のあとに、私の方は冗長性を交えてお話しします。
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演題は、なぜアクセシビリティが重要か、副題としてEPUBアクセシビリティJIS化の意味について話します。
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現在を、これまでのDAISYの立ち上げから今日までの流れを見ますと、非常に重要な転換点だと思いました。それゆえの今回のテーマです。どういう転換点か説明申し上げます。
DAISYは障害のある人の情報アクセスを支えるために、新たに開発されたマルチメディアの国際標準規格です。それにより、アクセシブルでない出版物をアクセシブルにする、アクセスの保障の時代から、EPUBという電子出版の国際標準規格、つまり出版する側が普段使っている電子出版の規格への転換です。その電子出版の規格を使って、障害者を含む全ての人を読者にする時代への大きな曲がり角です。そういう意味での転換点ではないかと思うゆえの設問です。
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国際標準規格としてのDAISYが生まれるまでのプロセスが重要だと思いますので、そのプロセスを振り返ってみたいと思います。アナログ時代の視覚障害者の読書は点字、拡大写本、録音図書。これは、オープンリールだったり、その後、カセットテープへの変遷がありました。ボランティアの皆様を頼りにして、極端に格差のある情報アクセシビリティの状況を少しでも改善する、そういう時代でした。出版社は積極的に関与していませんでした。その結果、(読むことが困難な方の)教育機会および就業機会は保障されませんでした。日本では、按摩、針、灸の3療以外による視覚障害者の経済的自立は極端に困難でした。
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そういう環境の中で、世界の先進国に学んで、遅れた日本の情報アクセシビリティを改善しようという取り組みが行われました。1981年、国際障害者年を機に、特に視覚障害者で高等教育に進んだり高等教育を目指す人自身の活動が、図書館の活動と一緒になり、様々な取り組みが行われました。
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その中のひとコマに私も含まれています。
「河村君、野村君を励ます集い」という写真があります。
スライドの写真を顔がわかる範囲で、名前をあげますと、一番左が東大法学部教授の青山先生、その右が、八代英太参議院議員。その右、少し長髪の好青年は石川准さん。東大文学部の学生。今、皆さんもよく知っている、日本の障害者施策を決める障害者製作委員会の委員長です。その右隣が、日本で最初に拡大読書器を使って司法試験に合格した野村茂樹さんで東大法学部4年生で弱視の学生でした。野村さんの右が私です。
この集いは何かといいますと、1980年12月にアメリカの視覚障害者への情報提供がどのように行われているのか、法曹資格を持った全盲の弁護士は、どう活躍しているか、調べてこようとしました。野村茂樹さんの、その後の法曹の専門家としての活躍を支援し、さらに日本の高等教育に、どのように情報支援を取り入れていくのか、それを調べてくるミッションでした。
当時、外国へ行くのも簡単ではありませんでした。私は東大総合図書館職員で国家公務員という立場でしたから、そう簡単に外国に行けません。様々な支援と妨害が入り混じる中で、皆さんに励まされて1980年12月にアメリカに行きました。その時、野村さんと、当時、都立中央図書館で働いていた全盲の田中章治さんも一緒に渡航しました。
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その翌年が、本当の国連の障害者年です。今は東西が統合されていますが、当時、東ドイツのライプツィヒで国際図書館連盟の大会が行われました。そこにみんなで行って、情報を得てこようとしました。右の写真の真ん中には、市橋正晴さんが写っています。市橋さんは弱視の川崎市点字図書館の職員でした。拡大出版に熱心で、その情報を得て来たいということで、石川准さんなど数名とともにライプツィヒまで一緒に行ってきました。視覚障害者自身が積極的に自分に必要な情報はどのように提供されているか、その状況を調べて、日本の今後の取り組みの参考にしようという取り組みが行われまして、私はそのお手伝いをしました。
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欧米の視覚障害者への情報サービス先進国では、優れた日本の技術と製品、特に音響機器、そのパーツ、立体コピー機(日本で開発された指で触って図形が読み取れるコピー機)、点字ディスプレイ用の部品などに関して、日本で作ったものが欧米で活用されていたのが分かりました。
残念なことに、日本ではそれが障害者への支援に使われてないと、痛感して帰ってきました。
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日本の技術を生かした情報サービスの改善が国内でも必要ではないかという考えが、だんだん脹らんできました。
1986年に、国際図書館連盟の東京大会が開催されました。それをターゲットにした飛躍を展望した取り組みがありました。当時、日本のデジタル音響技術は、世界中から注目されていました。日本のソニー、パナソニックが、世界中の音響市場を席巻し、世界中の図書館界から日本の音響技術への期待がありました。そこで国際セミナーを開催しました。その中で、特に期待されていたのは、アナログでは検索がうまくできなかったり、携帯したり保存したりすることがうまくできないという、いくつかの機能上の問題(の解決)です。特に図書館として、保存するときです。例えばカセットテープに録音すると30年で使えなくなります。アナログですから、ダビングを繰り返すと雑音がひどくなり、まったく聞こえなくなります。30年ぐらいで資料が消えてしまいます。この保存の問題が深刻でした。こういったことの解決策を探る機会を作ったのです。
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この時、日本電子機械工業会が参加してくださり、アナログカセットテープから、デジタルオーディオへの転換点は約10年後だと話してくれました。国際的にその10年間の間にしっかり準備をしようという戦略が立てられました。それが1986年です。
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1990年代に入ると、いろんな国が独自の開発を進めていました。今まではカセットテープで国際的に交換して、よそで作ったものを聞くことができていましたが、デジタルになると互換性がなくなるのではないかという、非常に大きな心配が出てきました。
その中で技術的に突出していたのはどこか、スウェーデンの開発と、日本のシナノケンシという企業の開発でした。
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1995年になると、国際標準規格について、影響力が絶大なアメリカの世界最大図書館・議会図書館が、国際標準規格を開発してくれると期待していて、カナダで会議を開きました。その結論としては、アメリカは、「10年間は、今のシステムが巨大で移行するつもりはなく、デジタル図書の規格が必要であればよそで、特にIFLA(イフラ)国際図書館連盟で開発してくれ」という結論になりました。
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その時に、みんなアメリカがそう言うとは思っていなくて、会議の招集者であるアメリカが主導してくれるものと思っていました。しかし、アメリカが、「自分たちが10年やるつもりはない。」と言い、「やりたいなら勝手にやれ」という言い方をされました。
今ナイアガラを背にした写真がスライドに移っています。
スウェーデンのTPBの人たちと私が、トロントからナイアガラまで片道3時間以上ドライブし、その往復の中で、今後どのように進めるかの話をじっくりできました。
その時の写真です。このドライブは、その後、非常に有効に生かせました。
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国際標準規格の開発のために1996年にDAISYコンソーシアムを立ち上げました。96~98年までの期間、日本の厚生省の補助金が出ました。テクノエイドを通じて、3000万円補助金をもらいました。30カ国1000人の参加者を得て、世界中の視覚障害者自身がデジタル録音図書をどのように考えているのか、その機能についてユーザーの意向を把握する国際評価試験を行うことができました。プロトタイプとして、これはどうだろうと、オリジナルのDAISYといいますが、スウェーデンのTPBが開発したDAISYをシナノケンシが開発したプレーヤーで聞く国際評価試験を実施しました。様々な批判も出ましたが、これで行けと、大きな後押しを受けることができました。
それを受けて1997年、私は東大を辞め、日本障害者リハビリテーション協会に移り、DAISYコンソーシアムの暫定プロジェクトマネージャーとして活動しました。アメリカのグループは、Webの出版技術に明るく、テキストをベースにしたデジタル録音図書づくりや、あるいはデジタル出版の活動を進めてきました。当時まだTTSも発達しておらず、テキストが音にならなかったので、ヨーロッパは音声中心としてデジタル録音図書の開発を進めていました。重要なのは、このアメリカとヨーロッパの両方がまとまって統一した国際標準規格を作るためにはどうしたらいいのかということでした。
1997年8月までに標準規格を決めると、1995年にそのように約束して、2年の間に標準規格に持っていくということで、国際図書館連盟(IFLA)での約束を実現するための最後のチャンスの、1997年5月に、スウェーデンのシグツナで会議を開きました。そこで最終的に統一できるという展望を得ました。ジョージ・カーシャーをプロジェクト・マネージャーにリクルートして、私からバトンタッチしました。
その後、ウェブの方のW3Cのワーキンググループに積極的に参加し、1998年9月にDAISYの国際規格の仕様ができました。
1998年から2000年にかけて、日本では景気浮揚策がありました。厚生労働省の補正予算、15億円ほどの投入がありました。そして、世界に先駆けて、全国の点字図書館にDAISY録音図書の実装が完了しました。
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並行して2000年には、今のEPUBにつながる開発の源流である、Open eBook Forum(オープンイーブックフォーラム)の理事長に、2000年にジョージ・カーシャーが就任しました。EPUBそのものをアクセシブルにするミッションで、DAISYコンソーシアムは、ジョージ・カーシャ―を通じて今日まで貢献してきました。EPUBの開発は、DAISYコンソーシアムとしては立ち上げから参加していました。
従って、EPUBの開発当初からDAISYコンソーシアムは立ち上げに参加し、その中でアクセシビリティの問題意識を出版社側で普及することに努めてきました。
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左の写真は、ジョージ・カーシャーは高校時代レスリングをしていたそう、恰幅のいい、マッチョな人です。
右の写真は、今もずっと働き続けているジョージ・カーシャーと開発者の面々です。
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DAISYコンソーシアムとしては国際的活動を重要視しています。世界情報社会サミット、あるいは2015年には仙台で行われた第3回国連防災会議に、積極的に関与しました。それぞれの会議で情報アクセシビリティを主張し、実装していくとともに、成果文書といいますか、そこで出てくる新しい政策に情報アクセシビリティに対する提言を折り込んで行くことを心がけています。
特に国連世界情報社会サミットでは、ユニバーサルデザインが、DAISYコンソーシアムを通じて提唱され、外交官に受け入れられました。
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2015年防災世界会議においては、DAISYを使った避難マニュアルを日本の地域に住む精神障害者に分かりやすいマニュアルとして提供することをテーマにした研究開発プロジェクトを国際的に進めていました。
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この研究開発プロジェクの実践されました。
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この研究開発プロジェクの実践については、特に精神障害の皆さんのすばらしい好実践だと評価されました。このプロジェクトでは、精神障害者の皆さんが地域で自分たちの安全をはかるための率先避難を行いました。これが東日本大震災で地域全体での率先避難につながったということで国際的に非常に高く評価されました。会議では写真のようなプレゼンテーションも行っています。
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このように実装面でも、実際に利用者に寄り添った開発と実装を心掛けてきました。日本国内ではDAISY教科書における、これまで読むことに障害のある児童生徒への支援をずっと続けてきました。2021年、2022年度では、DAISYからEPUB3へと教科書の技術的な中身がシフトするに至っています。
これまでの取組みは、できるだけ利用者のニーズに即して、きちんと応える形で、1つ1つ成果を確かめながら、国際的にDAISY、EPUBの開発を進めてきました。
<スライド20のリンク一覧>
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EPUBのアクセシビリティのJIS化を今年8月に達成しました。EPUBアクセシビリティを日本語やアラビア語など、実装に特別な配慮が必要なところに国際化の活動を広めていくことと、日本における検証を含めた実装が課題になります。
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DAISYコンソーシアムには、日本DAISYコンソーシアムを通じて、日本の諸団体が加入しています。年間会費は400万円です。会費を集めるのに苦労しています。
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日本DAISYコンソーシアムは正会員5団体や準会員、賛助会員、多数の個人会員の皆様にご参加をいただいて活動しています。このような日本DAISYコンソーシアムで、これまで以上に日本におけるEPUBの実装を進めたいと考えています。
ご清聴ありがとうございました。